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心に残る言葉

平成29年12月26日(火)
 はじめに 中村天風先生の話し方の特色と教えの骨子

中村天風先生は、病気や人生の悩みを解決したい人に、具体的に分かりやすく、手をとるようにして、誰でもできる方法を教えていた。どの人も教えどおりに根気よく続ければ、心も体もよくなって、何事にもくよくよしなくなった。そうしているうちに教えが知らぬ間に身について、それが自然に人々の役に立っていた。
 先生は聴衆に話す前に、内容を必ず原稿にした。父の話から察すると、書く前はじっと座ったままでいたという。それは自分がいつも説いていた、安定打座(あんじょうだざ)の実践でもあった。安定打座とは先生が工夫した座禅だが、自分が一番楽に思う姿勢で、形を崩さないでしばらくの間、じっと座る方法である。
 座る所はどこでもよく、時間も決めていないが、一日最高一時間から三、四十分くらい、起きる前や寝る前、夜目が覚めた時など、いつどこでもよい。電車やバス、列車や飛行機の中でもできる。正式には印を組み、打座中間をおいて鐘(戦後はブザーも併用)を何回か鳴らす。印は人の見ていない所で組み、人が見ている時はじっとしているだけでよいし、鐘ももちろん使わない。
 安定打座の印は、鎌倉の大仏様の手の組み方と似ている。すなわち、右手と左手の指を互い違いに組み合わせ、右手の小指が外側に来るようにする。一方では、右と左の人差し指をそれぞれ曲げ、曲げた先がおのおのの親指の先と軽くふれ合うようにする。この場合、両方の手の親指の爪と爪が上を向く形にする。同時にこの両方の親指同士も、先がお互いに軽くふれあっている。こうして組んだ両手の指と指を下腹の部分の、股の付け根あたりに置くやり方である。
 自分の教えを応用して、原稿を書くためにじっと座る時間はいつの間にかだんだん短くなったが、その間に何をどう話すかがひらめくとすぐ書き出した。その時、原稿用紙の裏もよく使った。
 書き上げた草稿は、できるだけ多くの人に納得させるために、有名な講釈師や噺家の口調をうまく使った。話の最中は、原稿を見ている感じはまったくなかった。天風先生は生きの良い江戸前の口調で語るから、聞く方は感銘するだけでなく、笑いの渦によく巻き込まれていた。
 たとえば宇野千代の『天風先生座談』や、先生の生の講演を記述した『成功の実現』『盛大なる人生』『心に成功の炎を』等を読むと、それがよく出ている。いずれも、読み物としても価値の高いものばかりである。


『実録 中村天風先生 人生を語る』森本暢著  南雲堂フェニックス P13〜15


平成29年11月23日(木)
 金鶏神社・社稷祭
 嵐山の地に於いて行われたおそらく最後の社稷祭である。
 私が奉納吟詠を依頼され、安岡正篤先生が作られた次の漢詩と短歌を献詠させて戴いた。
 記録として写真を残しておきたいと思う。

■漢詩  安岡正篤作
畠山重忠城址
日本農士学校旧蹟に題す

槻水汪々として古城を遶り
秩山寂々として岫雲軽し
英雄の風概健児の学
卓立高標無限の情

■短歌  安岡正篤作
うつせみの露の命と思へこそ
聖の道を 探ねこそ行け



平成29年10月31日(火)
 夫・三浦朱門と過ごした夫婦の「最後の日々」
 夫90歳、妻85歳。夫はある日、崩れるように倒れた。私はその時から、覚悟を決めた。 短い検査入院の間に、私は日々刻々と夫の精神活動が衰えるのを感じた。その時から、覚悟を決めたのである。夫にはできれば死ぬまで自宅で普通の暮らしをしてもらう。そのために私が介護人になる―。
 聖路加病院の故・日野原重明先生と対談をした帰りの車の中で、当時はまだ素人は知らなかった人間の臨終を楽にする方法を、私は教えて頂いた。やってはいけないことが、三つほどあったように私は記憶した。胃瘻、気管切開、多量の点滴による延命である。
 胃瘻は終りの見えない戦いを開始することになる。気管切開は、最後に家族と語る機能を失わせるので絶対にしてはいけない、と先生は教えてくださった。
 二十四時間、点滴を続けているような過剰な輸液は、体の細胞を溺死体のようにする。痰は増えるし、苦しませるだけだ


『夫の後始末』曽野綾子著  講談社  P149〜150


平成29年10月16日(月)
 稲盛 自殺までするというのは単純なことではなくて、人それぞれに大変深刻な事情や、複雑な苦悩があってのことだと思いますが・・・・・・・。
 私なんかでも、生きていく中でほんとうに苦しい時というのはやっぱりあって、今まで経営者として経営の難しさというものに直面しながら、その中で、もう死にたいなと思ったことは一度や二度じゃないですから。
 瀬戸内 稲盛さんでも、そうですか。
 稲盛 はい。実際に死ぬ準備をしたとか、そういうことはありませんが、もう死んでしまいたいと、それが言葉として出るぐらいのことは、いくらでもありました。ただ、ほんとうに思いつめて死んでしまうほど悩むというか、このまま心労を積み重ねていっては危ない、というところで、なんとか踏みとどまったんです。
 よくよく考えてみれば、そういった苦悩や心労は、いくら心配してみても、いくら悩んでみても、自分で解決がつくような問題じゃないんですよね。生きていれば、つらいことはたくさん襲ってきます。でも、仮に会社が倒産したとしても、家がなくなっても、火事に遭ったとしても、もうそれ以上つらいことは何もないんです。
 だから今、被災地で苦しんでおられる方々も、自分だけでは何も解決しようがないんですから、そこはもう、あっけらかんと、もうしようがないんだと割り切ってしまったほうがいいと思うんです。なんでも真剣に心配するのがいいことだ、全部自分で責任を負うのが正しい、責任を負わないのは卑怯者だ、と思っている真面目な方も多いと思いますが、そんなことはありません。ああ、すべてなくなってしまったなあ、借金だけが残ってしまってもう返せないなあ、でも、それもしようがないよなあと、開き直ってしまえばいいんです。そういう不真面目さと言いますか、不逞な態度と言いますか、やっぱりある意味での達観が必要だと思うんです。
 瀬戸内 ケ・セラ・セラ、なるようになる、よね。
 稲盛 そうなんです。それでもいいんだ、ということを、家族や周りの人たちが当人に教えてあげなきゃいけないと思うんですね。
 たとえば、借金があったのに、震災で返すあてがなくなったという人もたくさんいるでしょうが、もう起こったことは仕方がない、自殺するぐらいなら借金を踏み倒してもいい、と思えばいいんです。現代の一般社会では、それはご法度かもしれませんけれども、事業や自宅取得のために、いわば善意でもってお金を借りた人が、必ず働いて返そうと思っていたのに結果的に返せなくなってしまったということであれば、それはもうしようがない。ほんとに申し訳ありませんが、もうしばらくは返せません、と言うしかないです。どうしたって払えないんですから。最初から払わないつもりじゃなかったわけですからね。だけど、そこで会社の体面だとか、自分の体面だとか、家族の体面だとか、いろんなことをあまりに生真面目に考えるから、行き詰まってしまうんです。
(中略)
 瀬戸内 そう、真面目な人が死ぬんです。
 それと、多くの場合は借金があって、自分が死んだら生命保険が下りてお金が入るから、それで家族が楽になるだろうと思って死のうとする。だけど、家族はそんな借金を返すことよりも、その人に自殺されたほうがどれだけつらいか・・・・。
 だからやっぱり自殺したら、いけないんですよ。神様仏様からいただいた命なんですからね。生まれてきたのだって、自分が生まれようと思って生まれたわけじゃない。いただいた命なんですから、自分勝手に死んじゃいけないんです。


『利他』瀬戸内寂聴・稲盛和夫 著 小学館文庫 P52〜55


平成29年8月22日(火)
 西暦一六〇八年、琵琶湖の西岸近江の地に、これまでの日本にも類のないような、高徳にして進歩的な思想家が生まれました。生地の近くには比良山が、なだらかな頂きをみせ、その影を下方の鏡のような湖面に投じていました。関ヶ原の戦いからわずか八年後、大坂城落城の七年前のことです。男たちの主たる仕事はまだ戦いにあり、女たちの嘆きと悲しみに明け暮れる日々がつづいていました。学問や思想を求めるなどは、世の実際家にとり、なんの価値もないものと思われていた時代であります。藤樹は、両親の住む近江から遠く離れた四国で、もっぱら祖父母の手により育てられました。
 幼いころより、同じ年ごろの子供らのなかでも、また、たいてい武芸を授けられていたサムライの子弟のなかにあっても、藤樹は早くから、鋭敏まれなものをみせていました。11歳のときに早くも孔子の『大学』によって、将来の全生涯をきめる大志を立てました。『大学』には、次のように書かれていました。
 天子から庶民にいたるまで、人の第一の目的とすべきは生活を正すことにある。
 藤樹はこれを読んで叫びました。
「このような本があるとは。天に感謝する」
「聖人たらんとして成りえないことがあろうか!」
 藤樹は泣きました。このときの感動を藤樹は一生忘れませんでした。「聖人たれ」とはなんという大志でありましょうか!


『代表的日本人』内村鑑三著 鈴木範久訳 岩波文庫 P115〜117


平成29年4月4日(火)
 安岡先生によれば、江戸時代は世界史でも最高の文治社会であり、そこにはぐくまれた教養人たちが縦横に活躍するのが幕末明治維新であるので、維新の歴史が面白いというのである。
 確かに、維新を見ずに死んだ吉田松陰、佐久間象山、藤田東湖等々数えきれない人々をはじめ、維新のにない手西郷隆盛と言い、幕府側の幕末三舟―勝海舟、山岡鉄舟、橋泥舟―と言い、その後の日本の近代化をになった陸奥宗光、福沢諭吉と言い、少なくとも古典の教養で較べてみれば、現代人は誰も太刀打ちできない教養人たちである。
 確かに時代も人を創った。こうした人々を十二分に活躍させたのは、すべてが破壊され、新たに創造される変革期だったからである。
 しかし歴史と古典の教養がなく、自分の身のまわりの貧弱な経験しか知らない人は、大きな変動に際してどうしてよいのかわからなくなってしまう。歴史と古典を知っている人にとっては、大きな変動もデジャ・ヴュ(かつて見たことがあること)である。そういう変動期こそ、教養人の洞察力が活きてくるのである。
 歴史には時として、こういう大変動期が訪れる。私個人も、敗戦の時の日本、ソ連邦解体の時のロシアで、肌で感じている。しかし日本の場合は、本当に過去が清算されて白紙の状態になったのは敗戦直後のほんの二、三カ月であった。


『国のつくり方―明治維新人物学』渡部昇一・岡崎久彦著 致知出版社 P3〜P4


平成29年2月13日(月)
 今はあらゆる面で情報過多の時代です。インターネットをはじめとして、テレビ、新聞、その他、あらゆるもので情報はあふれかえっています。しかし、そのあふれかえっている情報のうちで、自分の役に立つものは二種類あります。
 ひとつは、自分の仕事にすぐに役に立つという事務的と言ってもいいものです。たとえば自然科学者で医薬品開発に携わっている人ならば、世界中の医薬品会社がどういう薬を開発しているかなどという情報はきわめて重要な情報です。それはあらゆる分野に言えることで文科系統においてすらも、たとえばシェイクスピアの論文を書くときには、今外国の、あるいは、かつての日本人のシェイクスピア学者が何を書いたかということは常に自分のテーマに合わせて検索する必要もあるでしょう。
 ところがもうひとつ、別の知識というものがあります。それは自分自身をつくりあげていくための知識です。これは今言ったような意味のすぐに役立つものではなくて、自分をつくっていくとき、じっくり考えるのに役立つものです。
 では、自分とは何かと言えば、私は簡単に言えば、自分という記憶の連続の中にあるものだと思います。その記憶の連続の中にあって、常に離れていかないもの、それが自分の考え方であり、信念であると思います。
 その信念を養っていくのに役立つ情報というのがありますが、この二種類の情報がしばしば混同されている恐れがあるのではないでしょうか。インターネット、その他の、いわゆるマスコミ情報で入る情報の多くは、自分の外面的な仕事などに関する情報です。ところがそれとはまったく別の情報があります。その情報は、新しさ、古さにはまったく関係のないものです。たとえば、新約聖書は今から二千年ぐらい前に書かれたものですが、これを古いという人はいないでしょう。それは論語でも、お経でもそう言えます。また、芭蕉の俳句が古くさいという人もいないと思いますし、万葉集の和歌が古くさいと言う人もいないはずです。
 このように自分の内面生活にふれたものには古いというのは関係ありません。


『わたしの人生観・歴史観』渡部昇一著 PHP研究所 P4〜P5