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心に残る言葉

平成26年01月10日(金)
 心に残る言葉は、深澤の都合によりお休みします。


平成25年12月2日(月)
 ブータンの概要
 ブータンの人口は約70万人と少なく、日本で言うと島根県、もしくは東京都練馬区の規模です。しかし、面積は九州とほぼ同じくらいの大きさがあるので、人口密度が非常に小さい。地政学的にはインドと中国という2つの大国に挟まれているので、この小国がどうやってこの2つの国の間で生き残っていけるのか。そういう観点から、国王や首相が知恵を巡らせて、国づくりを行っているという状況です。
 ブータンは本当に日本とよく似ています。その1つが美しい田園風景です。(略)
 ブータンの地方では、今でもほとんどが3世代同居です。病気になっても自宅で看取られる事がほとんど。山々を上り下りしていかなければならない地方では、せいぜい月に1〜2回の往診が精一杯だからです。日本では家族が病気になったら、できるだけ良い病院に入れることを考えるでしょう。たとえガンの末期で入院したとしても、家族は仕事で忙しく病院に行くことが出来ないからです。しかし完全看護で立派な病院に入れたことで、精一杯のことをしてあげたと思う訳です。あるいは高級老人ホームに入れたから、もうよいでしょうとなる。
 毎日診てくれる医者がいるけど、家族は月に1回のみ面会の日本人と、医者は月に1回、家族は毎日そばにいてくれるブータン人では、どちらが幸福なのか。
 果たして幸せとはいったい何なのかということを、ブータンと日本を比較すると否が応でも考えさせられます。いったい幸せとは何なのかということが分からなくなってしまうのです。
 私は、「あなたにとっての幸せっていったい何なのですか?」ということをたくさんの人に問いかけています。そのなかに、「幸せ=財/欲望」という考え方があります。これはある経済学者の公式ですが、幸福は欲望分の財で、分母が欲望です。この欲望を企業は広告でたき付けて煽る。欧米や日本の社会では、「新しい携帯電話がでますよ。今度のものはもっと性能が良いですよ」と言って、消費者の欲望を煽るわけです。欲望を満たすためには財を増やさないと幸せになれないという構造です。
 それに対してブータン人は何を考えるかというと、「幸せ=財/小欲」です。欲望が少なければ、財(もの)が少なくとも幸せです。さらに言えば、「幸せ=知足/小欲」となります。欲を少なくして足るを知る、つまり小欲知足と言うことです。
 ブータンでお坊さんに「あなた方はどうやったら幸せを実感できるのか」と尋ねたときにまず言うのは、この小欲知足です。信者にも必ずこの考え方を説きます。

『ブータンで本当の幸せについて考えてみました。』 元林靖久・高橋孝郎著 阪急コミニケーションズ刊 P9、P134〜136より

平成25年11月5日(火)
 日本には古くから
「お酌」という風習があります。
目上の人や年長者からお酌をしてもらうと、
「畏れ多い」という意味の
「もったいない」気持ちになるのでした。
そんな感情も風化しつつあります。

『もったいない{完全保存版}』 プラネット・リンク編 マガジンハウス文庫刊 P61より

平成25年10月3日(火)
 自分に対して、心から理解しわかってくれる人が数人あれば、一応この世の至楽というに値しよう。

 とりわけこの言葉は、疾風怒涛の逆境にある時、心なき同輩の嘲笑の中にある時、しみじみと味わい慰められるものではないでしょうか。九条武子の歌に、
  千人のあざけりの矢をうくるとも一人のひとの言葉にて足る
 とありますが、そうした満身創痍の身であればあるほど、一人の方の温かく深い洞察のひと言にどれほど慰藉せられるか、計りしれないものがあります。
 そうした悲風惨雨のただ中でなくとも、心の通じ合える二、三の人の存在は人間の至福と申せましょう。森先生はよく、「命の呼応」という言葉をしばしば仰せです。森信三先生の名著のひとつである「教育的世界」において、
 「まことに人間生命が、たがいに呼応共感の可能をめぐまれているということは、至幸というべきであろうか」と呼応関係の喜びを語っておられます。

『森信三語録 心魂にひびく言葉』 寺田一清編述 致知出版社刊 P40より

平成25年8月5日(月)
 肥料の影響はほかのところでも見られます。
 環境問題です。
 投入した肥料を野菜が全て吸収するわけではありません。では、どこへいくかというと、土に残ったり、地下水まで及ぶこともあるそうです。化学肥料であれ、家畜の糞尿である有機肥料であれ、過剰に投入された肥料が地下水に入れば、硝酸性窒素濃度が高まり、生活排水が混入するのと同じような状態になります。
 有機栽培では、化学が危険で、自然のもの、つまり家畜の糞尿などであれば安全と考えられていますが、地球環境の面からは、自然由来の肥料でも問題であることがわかります。ちなみに家畜の糞尿には、抗生剤やホルモン剤の影響もあります。
 また、肥料を与えることで土壌が弱り、野菜まで弱ってしまうことがあります。本来、野菜は大地に根を張って自らの力で養分を吸いあげて育ちます。しかし、肥料で養分を与えられることで、根を伸ばす努力を怠るようになるため、野菜自体の生育が悪くなってしまうのです。
 さらに、植物が根を伸ばすことをやめると土が固くなってしまいます。土の話については第三章で詳しく話しますが、微生物の数が減り、どんどん土が固くなって野菜は根を地中深くまで伸ばせなくなってしまう。完全な悪循環ですね。もっと言えば、野菜が根を伸ばせずに育ちが悪くなると、農家さんは「肥料が足りないからだ」とさらに肥料を投入します。
 土が、野菜が、どんどん弱っていくことに早く気づいてほしい、と僕は思います。
 ここまで農薬や肥料のことをお話してきたのは、このことを提起させていただくためです。
 効果があれば、必ず反作用としての副作用があるのではないか。
 これは、僕が自然栽培を通じて得た、もっとも重要な提起のひとつです。

ほんとの野菜は緑が薄い』 河名秀郎著 日経プレミアシリーズ084日本経済新聞社 P52〜P53より

平成25年7月8日(月)
 岩木山での忘れられない体験
 死んでお詫びをするしかない。
 家族を不幸にしている自分が消えればいいんだ。
 そう思いつくと、少しは気が楽になりました。
 ロープを用意して岩木山に登ったのは、1985年夏。満月がきれいな夜で、ちょうどねぷたまつりの前日のことです。
 死に場所として選んだ木の下で、私は枝に向かってロープを放りました。
 そのとき、ロープが枝にちゃんと掛かっていれば、今、私はここにいないでしょう。
(略)
 落ちたロープを拾いに行った先で、私はリンゴの木を見つけました。月明かりに照られた木は見事な枝ぶりで、勢いよく葉を茂らせていました。
「なぜ、こんなところにリンゴの木が!?」と近づいてみると、それはドングリの木でした。
 人が何かを発見するとき、そのきっかけは本当にささいなことです。
 ドングリの木には、虫もついてなければ病気もありません。私は「なぜ農薬も肥料も使わないのに、山の木はこんなに元気なのだろう」と思いました。そして、ふと足元を見ました。
 木の周りには雑草がうっそうと生い茂り、地面はまったく見えません。踏みしめると足が沈むほどやわらかく、フワッとした土です。掘ってみると手で簡単にすくい取れます。雑草を引っぱると、根っこ全体が軽い力でたやすく抜け、顔を近づけてみると山の土独特のツンとした香りが私の鼻をくすぐりました。
「そうか、この土をつくればいいのか!」
 私は死のうとしていたことなど、すっかり忘れていました。
「これだ、これだったんだ!」
 居ても立ってもいられなくなり、私は夢中で山を駆け下りました。
(略)
 山のものと同じ土をつくることを目標に、また猪突猛進の日々が始まりました。
(略)
 地面を掘って土を観察していると、地上にある木だけを見ているときにはわからなかったことが、少しずつ見えてくるようになってきました。バクテリアや微生物、細菌類が、実は植物の生育に大きく貢献していたのです。また、生き物たちも絶妙なバランスを保ちながら、植物の生命と深く関わっていたのです。
 リンゴの木は、すべてのものとつながって生かされている。
 私は、ようやくそのことに気づきました。
 次の年、畑は生き物の楽園になりました。野ウサギ、野ネズミ、カエル、イタチ。さまざまな小動物がやってくるようになり、一気に賑やかになったのです。巨大なミミズも現れ、その糞に含まれる微生物や菌によって、土の状態が目にみえて良くなってきました。

『ソウルメイト』 木村秋則著 扶桑社 P109〜P113より

平成25年6月5日(木)
 宗教破壊
 チベットに共産主義を浸透させるためには、宗教を撲滅することが不可欠と中国は考えました。そこで上位三階級を処刑した後に、僧侶の処刑と寺院の破壊に着手しました。カム地方で最も有名な高僧の一人であったドゾルチェン・リンポチェは、四肢に杭を打たれて身動きできないようにされ、腹を上から下まで切り裂かれたといいます。また、「奇跡を起こせるなら皆の前で飛んでみせろ」と言われて、高い場所から蹴り落とされた僧侶もいました。中国人は殺した僧侶に向かってこう言い放ったといいます。
「自分の命さえ救えない者に、人民の命を救えるはずがないではないか」
 殺されなかった僧侶も、中国共産党によって酷い仕打ちを受けました。私たちがインドに亡命する途中、一時期滞在したミンドリン寺の貫首で大叔父であるチュング・リンポチェは、タムズィンにかけられ、紙の帽子を被ってラサ市内を引き回された挙げ句、清掃係をやらされました。中国は僧侶の威厳を地に落とし、チベット人が僧侶に抱く尊敬と信頼の念を奪おうとしたのです。同時にセラ、デプン、ガンデンの三大寺院を筆頭に、チベット全土で七〇〇〇以上あった僧院の九割が完全に破壊されました。ラサ蜂起当時、チベットには一〇〇万以上の僧侶がいましたが、中国による侵略過程でその九割が死亡、還俗、国外脱出のいずれかを余儀なくされました。寺院は土地、食糧、家畜など、それまでの私有財産をすべて没収されました。セラ、デプン、ガンデンの三大寺院からは著名な仏像や貴重な経典が持ち去られ、残された仏像は破壊されました。地方の寺院も同様です。
 先にも触れたように、一九六〇年代後半の文化大革命から一九七〇年代カンボジアのポル・ポト政権につながる暴政の系譜の原点は、実はここチベットにあったのです。チベットで実験を行い、その効果を見て中国国内に持ち込んだのかもしれません。
 その後も、虐殺こそ少なくなったものの、仏教に対する弾圧は今日に至るまで執拗に続けられています。一九八〇年代のケ小平の改革開放政策以降は寺院が修復されるようになり、現在は仏教の本も売っているので、チベットの生活様式に疎い外国人から見れば、一見、宗教の自由が取り戻されたように見えるかもしれません。しかしながら、民衆が寺院に行ける曜日が決められていたり、昼は私服公安、夜は武装警察、更には要所々々に設置された隠しカメラに二四時間監視されています。五人以上が集まると集会とみなされ検挙しても良い、という指令まで出ており、完全に政府に管理されている状態です。寺院内にも僧の姿の工作員が潜入していて、他僧の行動を逐一監視しています。また、寺院の修復にしても、観光資源としか考えていません。
 中国共産党憲法第三六条には「信仰の自由」が保障されていますが、この条文には裏があって、彼らの言う「自由」には様々な制限があるのです。中でも中国共産党にとって一番重要なのが「秩序を乱すようなものであってはならない」というものでしょう。もちろん、秩序を乱すものかどうかは、中国共産党が勝手に決めるというのはご存じの通りです。だから、お経を唱えるのはよくても、教えを説くことはできない。教えを説くと、非進歩的な考え方で人民を誤った方向に導いているとして逮捕されてしまうのです。布教ができずに儀式だけとなると、かえって宗教の意味が失われてしまいます。
 現在、北京政府から派遣された「工作隊」と呼ばれるプロバガンダ要員は、寺院内に駐在し、強制的に層や尼僧に政治的・宗教的な「愛国再教育」を施しています。共産党に従わなければ、投獄などの処罰が科せられるのです。また、ダライ・ラマ法王と、法王が認定したパンチェン・ラマ一一世を信奉することは禁じられ、市民がダライ・ラマ法王の写真を所持することすら、チベットでは違法になっています。そうした現状だからこそ、第一章で紹介したような僧侶による抗議運動が頻繁に起きるのです。

最終目標は天皇の処刑 中国「日本解放工作」の恐るべき全貌 ペマ・ギャルボ著 飛鳥新社 P67〜P70より

平成25年5月1日(水)
 2010年の世界の世論調査によれば、教育、医療、治安、経済、科学・技術のレベルを総合して、日本は世界でもっとも恵まれた国の一つです。それなのに、大震災前の日本人の主観的幸福度は、世界の90位でした。
 しかし、今回の大震災により、私たち日本人はあらためて、水、空気、電気の有り難さを知り、家族や地域の人々の絆を実感し、自然の恐ろしさを強く感じさせられました。その一方で、このような大震災に際しての、沈着、冷静、秩序正しい日本人の行動には世界中から称賛の声が寄せられました。
 今回の試練も、お互いに助け合い、生かされていることへの感謝の祈りを捧げるような精神をもつならば、必ず乗り越えられる、と私は確信しています。
 古来、日本人は神仏を尊び、自然の恵みに感謝し、大自然との調和のなかで、お互いに助け合って生きてきました。それは、私たちの体が60兆個もの細胞による調和的なはたらきによって「生かされている」ことにも通じるものがあります。
 日本人は、そうした眼に見えないもののはたらきに対する感謝の祈りを捧げる「祈りの民」であり、日本には「祈りの国」としての伝統がいまなお息づいているのです。それを端的にあらわしているのが、「ありがとう」「おかげさま」「いただきます」などの「ひらがな言葉」です。これらの外国語に翻訳することが難しい「ひらがな言葉」には、日本人が大切にしてきた価値観や生き方が凝縮されています。

幸せの遺伝子 村上一雄著 育鵬社刊 P4〜P5より

平成25年4月1日(月)
学は足らざるを知ること

 人各々分有り。当に足るを知るべし。但だ講学は当に足らざるを知るべし。
 「訳」人にはそれぞれ本分というものがある。それに満足して、貪らず、安らかに暮らすことが大切である。ただし、学問をする場合には、どこまでいっても、まだ足らないことを知って、努力を続けなくてはいけない。

佐藤一斎一日一言 言志四録を読む 渡辺五郎三郎監修 致知出版社刊 P150 より

平成25年3月3日(日)
<日本はアジアの光だった> 日本インド国交樹立60周年記念講演  ヘンリー・ストークス氏(ジャーナリスト)

 インドネシアの植民地支配は、1596年にオランダが艦隊をインドネシアに派遣したことに始まります。
 オランダの350年以上に及ぶ植民地支配に終止符がうたれたのは、1942年の日本軍の侵攻によるものでした。インドネシアには白馬に跨る英雄が率いる神兵がやってきてインドネシアの独立を援けてくれるという伝説がありました。日本軍の侵攻は、神兵の到来を思わせました。日本兵は、神話の軍隊であったのです。
 ジョージ・カナヘレは、「日本軍政とインドネシア独立」という著書で、次の4点を掲げています。
 一、 オランダ語、英語の使用禁止。これにより公用語としてインドネシア語が普及した。
 二、 インドネシア青年に軍事訓練を施した。これにより青年が厳しい規律や忍耐、勇猛心が植え付けられた。
 三、 オランダ人を一掃し、インドネシア人に高い地位を与え能力と責任感を身に付けさせた。
 四、 ジャワにプ―トラ(民族結集組織)やホーコーカイ(奉公会)の本部を置き、全国に支部を作り、組織運営の方法を教えた。
 日本は第二次大戦でアジアの国々を侵略したとされますが、どうして侵略する国が、侵略される国の青年に軍事教練を施すのでしょうか。彼らの精神力を鍛え、高い地位を与え、民族が結集する組織を全国につくり、近代組織の経営方法を教えることがありますか。
 この事実は、侵略したのが日本でなかった事を証明しています。日本はアジアの国々を独立させるあらゆる努力を惜しまなかった。では、一体、どこからの独立でしょうか?
 もちろん、アジアの国々を侵略していた白人諸国の支配からの独立です。
 ジャカルタの中心にムルデカ広場があります。
 ムルデカはインドネシア語で「独立」を意味します。独立の英雄ハッタとスカルノの像とともに高さ三七メートルの独立記念像が立っています。地下一階には、独立宣言の実物が納められています。ハッタとスカルノが直筆でサインしています。そこに独立の日が「17−8−、05」とハッキリ書かれています。
 「17−8」は八月一七日の独立の日を意味していますが、「05」、〇五年とはどういう意味でしょうか。インドネシア人はイスラム教徒ですがこれはイスラム暦ではありません。ましてキリスト暦でもありません。では〇五年とは何暦でしょう。実は〇五年は、日本の「皇紀」なのです。
一九四五年は日本の「皇紀」では二六〇五年にあたるのです。初代の天皇にあたる神武天皇が即位して建国をしたときから数えて年です。ハッタとスカルノは日本に感謝して皇紀を採用したのです。
 インドネシアの生みの親は日本だったのです。だから二人はインドネシアの独立宣言の独立の日を、日本の「天皇の暦」によって祝福したのでした。
 皆さん、こうした西欧の五百年に及ぶ植民地支配は世界中で広く認知されたことであります。我々は強、植民地支配から新たな発足が踏み出されています。
 日本は「日の昇る国です」。真に自由なアジアを求めるみなさんで手を取り合ってゆきましょう。民主的なアジアの連帯を実現する重要な役割を日本が果たすことを願っています。

月刊誌・カレント二月号 822号 平成25年2月1日・(株)潮流社発行 P46〜P47より

平成25年2月1日(金)
 大学を出たとき、何をしたいかは分からなくても、何をしたくないかは分かっていました。
 (ベルトコンベヤーのような人生だけは、送りたくない!)
 デパートや外国の航空会社という働き口はあったのですが、やったらやっただけ上がる、サボったらサボっただけ落ちるという真剣勝負の道を望んだ私は、大学の恩師の紹介を受け、映画スターのカバン持ちから始めようと、京橋の喫茶店「メトロ」に面接に行ったのです。その喫茶店にたまたま居合わせた東映の元専務、マキノ光雄氏に「君は、映画俳優になる気はないか?」と声をかけられて入った道です。
 養成所では「目つきが悪い」と言われ、バレエを踊れば笑われ、日舞は着物の裾が割れたと叱られる。初めてドーランを塗ったときの屈辱的な涙の味は、今も覚えています。
 ここから始まった俳優という道…。
 高邁(こうまい)な演技論などとは無縁だった私は、体を張ることで挑むしかありませんでした。
 1966年の「網走番外地・大雪原の対決」では、疾走する馬に雪の中を引きずり回され傷だらけになりました。78年の「冬の華」では、15年の刑期を終えて出所した主人公が、初めての朝食のパンに異常なほどたっぷりとジャムを塗りつけるシーンを、元受刑者の方のお話をうかがって演じました。94年の「四十七人の刺客」では、毎日ちょんまげ姿に本身の入った二本差しを腰につけて伊豆の海岸を歩き回り、武士の気持ちをつくりました。
 振り返れば、滑稽ともいわれそうなデコボコの道です。
 人生には、そんなにいいことはめぐってきません。がんばれば必ず報われるかといえば、それもウソでしょう。けれども、ほんのたまにめぐってくるいいことを見逃さないために、普段から神経を張りつめて、がんばっている必要があったのです。

■俳優の義務とは…
 ほんのたまにめぐってくるいいこと…。それを私は「感動」と呼びます。
 感動ほど贅沢(ぜいたく)なものはなく、感動のない人生ほど淋しいものはないと信じています。
 観る人を感動させる最高の演技というのは、何回もできるものではありません。全身全霊がパッとほとばしる瞬間は、たった一度きりといっても過言ではないでしょう。その一度の演技のために、多くのものを捨てて心身を整え、出来得る準備はすべて整えておく。
 映画という2時間前後の世界の中で、一生忘れられないような台詞やシーンに出逢っていただくために、俳優はこの義務を負っていかなければならないのでしょう。

高倉健のダイレクトメッセージ 日本経済新聞電子版2012年5月18日発信号より

平成25年1月4日(金)
 「学を為す。故に書を読む」言志四録
 読書に三等の品位あり、という言葉がある。
 第三等の読者とは、推理小説などを好む時間つぶしの読書をする者である。本の教えを活用しようとする意欲に欠けるが、読書に親しむ初期レベルとしては、有効である。
 第二等の者とは、情報収集型読者である。ハウツウ本や情報雑誌を好み、読者の心を高めるというよりも、頭脳に入る情報量を多くするレベルの読者となる。
 第一等の者とは、読書を自己鍛錬の場とする者である。宮本武蔵の五輪書に、「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とする」とあるが、読書により自己を鍛える。取り組む書物も風雪に耐えた古典となる。読む前には姿勢と心を整え、何回も朗読し、真髄の文章を何回も清書する。姿勢と心で読み、口で読み、腕で読み、書物の教えを血肉化し生活に活かす。本会の狙いとする読書の品位はここにある。

言志四録に学ぶ 心の基礎力2 杉山厳海著 大原学園・百万人の心の緑化作戦・事務局 P14より